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なぜ日本のITは遅れ続けるのか

――誤解と判断力の欠如が生む構造的リスク


第1章 判断できない組織のリスク


日本のIT産業が遅れている理由は、単なる技術力の差ではない。
現場での「判断力」を軽視する文化が、構造的な停滞を生んでいる。


経営が「最短の正解」を求めると、エンジニアは思考よりも指示の再現を優先するようになる。
結果として、「仕様通りに作る」ことが評価され、「正しく判断する」力が失われていく。


この文化は、プロジェクトを一見スムーズに見せるが、問題の根を放置したまま進むため、後工程で破綻を生む。
残念ながら「仕様書」は常に正しいとは限らず、完璧でもない。
判断できないエンジニアは、間違った仕様に基づいてシステムを構築してしまうし、完璧でない仕様書を前にすると、手を止めてしまう。


判断を封じた組織は、問題が発生しても修正できない。
それが、「失敗を繰り返す日本のIT構造」である。




第2章 SNS・マスコミ・勉強会が作った虚像


数年前、ネット上で「staticおじさん」という呼称が生まれた。
あるエンジニアが「オブジェクト指向を使わない」という判断をしたことをきっかけに、
SNS上で「オブジェクト指向を理解できない老害エンジニア」として揶揄されたのである。


しかし実際の現場では、この「老害エンジニア」と呼ばれた人々こそ、
長年にわたりシステムを安定的に稼働させ、数多くのプロジェクトを支えてきた主力層であった。


だが、ネット記事や勉強会での誤解や簡略化が進むうちに、
「古い技術者=悪」とする物語が独り歩きしてしまった。
SNSや勉強会では、非エンジニアもこの議論に参加し、
「正しい技術の形」を安易に語る空気が生まれた。
それが、現場での健全な議論をも蝕んでいったのである。




第3章 SES構造と粗製乱造の危機


SES(システムエンジニアリングサービス)は、短期的には人員不足を補う仕組みとして機能している。
しかし、即戦力を求めすぎるあまり、エンジニアの自由な思考や技術習得の時間を奪ってしまう。


2025年現在、こうした安易な人材育成を政府が後押ししている面がある。
「デジタル人材育成のための『実践の場』開拓モデル事業」は、その典型だ。
本来は人材育成を目的とした制度であるが、現実にはSES構造の延命に利用され、
短期育成・早期投入による「粗製乱造」が進んでいる。


十分な学習機会がなくSESで派遣されたエンジニアは、正常な判断ができず、
SNS上の誤った知識の伝搬や、固定化された正解主義の文化にさらに晒される。
その結果、プロジェクトの現場では、思考を止めた「作業者」が増えていく。




第4章 経営者が問われる「誰を雇うか」


非エンジニアを安易に開発現場へ入れると、判断の混乱が起こる。
プロジェクトマネージャが優秀であれば協働は可能だが、
実際には「プロのマネージャ」はエンジニア以上に希少である。


経営者に問われるのは、「どんな人を雇うか」だけではなく、
「どんな判断を許す文化を作るか」である。
判断力を育てるには、失敗を許容する余白と、考える時間を保障しなければならない。
その余白を「余分なコスト」と見なす企業に、技術は根付かない。


例えば、「オブジェクト指向を使わない選択」や「既存の非オブジェクト指向資産を活かす判断」は、
適切な判断を行っている可能性が高い。
もちろん「オブジェクト指向を使う選択=不適切な判断」ではないが、
その欠点を理解している必要がある。


炎上プロジェクトは、「エンジニア」と「非エンジニア」を見分ける格好の機会である。
普段から技術論を声高に語る自称エンジニアが、炎上した途端に理由をつけて逃げることがある。
一方で、普段は口数の少ないエンジニアが、現場を立て直すことがある。


「プロジェクトに責任をとれる人がエンジニア」であり、
「正しい判断ができるエンジニア」は、最終的にプロジェクトをゴールへと導く。
経営者としては、このような人物を見分ける「目」が求められる。




結論 ――経営者が持つべき「技術を見る目」


技術力の本質は知識の量ではなく、判断の質で決まる。
正解主義が支配する組織では、判断力が失われる。
誤った知識の伝搬と即戦力主義は、経営が気付かないうちに、
組織の判断力を蝕み、日本のITの停滞を再生産している。


経営者がまず行うべきことは、「判断するエンジニア」を育てる環境を整えることだ。
それには、自身が技術に明るくなるか、信頼できるエンジニアやマネージャを確保することも重要である。
それができない限り、日本のデジタル化は、どれほど予算を投じても前に進まない。


AIがコードを書く時代になろうとしている今こそ、
経営者に求められているのは「正解を知る力」ではなく、
「判断できる人材を見抜く力」である。




この文章は、ChatGPTとの共同作業により作られています。

2025-11-02 | コメント:0件

エンジニアと非エンジニア

―「staticおじさん」というモデルが歪められた物語―


「staticおじさん」という言葉が生まれたのは、十数年前のあるネット記事がきっかけだった。
とあるエンジニアが、「オブジェクト指向がわからない」と率直に書いた。
コメント欄では賛否が分かれ、議論は次第に激しさを増していった。
やがて、その人物の主張の一部だけが切り取られ、「オブジェクト指向を理解できない頑固な人」というレッテルが貼られた。
その象徴的な呼び名として登場したのが「staticおじさん」である。


つまり、“staticおじさん”にはモデルが存在した。
だがその人物は、もともと技術を語っていただけだ。
しかし、ネット文化は誠実な議論よりも“わかりやすい敵”を好む。
その結果、個人の発言が物語化され、「古い技術に固執する老害エンジニア」という虚像が作られていった。


オブジェクト指向の議論という技術的テーマが、いつしか「世代対立」「価値観の断絶」といった社会的物語にすり替えられたのである。
“理解しようとしない人”という構図は、読む人に安心感を与える。
自分は「新しい側」に立っているという錯覚をくれるからだ。
こうして、一人のエンジニアの誤解が、ネット全体の“物語”に変わっていった。




勉強会と「リアルな虚像」


やがて、この物語は一部の勉強会にも持ち込まれたことがある。
勉強会自体は知識を共有する素晴らしい文化だ。
ただ、非エンジニアや若手が参加する場では、
「staticおじさん=古い考えの象徴」というイメージが語られることがあった。


そこには、本来の人物像も、元の記事の文脈も存在しない。
ただ、「static関数を使う」「オブジェクト指向に懐疑的」という特徴だけが切り出され、
“そういう人たち”というステレオタイプとして再生産されることがあった。


実際、当時の技術コミュニティでは、
「なぜそう考えるのか」よりも「どちらが正しいか」が重視されていた。
正解主義の文化の中で、
“反対意見を持つ人”は「理解できない人」として扱われた。
そしてそれが笑い話として語られることで、
“老害”という言葉が社会的な正義の衣をまとったのである。




「staticおじさん」は誰だったのか


本当の“staticおじさん”とは誰だったのか。
それは、一人のエンジニアの名前ではなく、
「自分の考えを曲げずに語ろうとした人」そのものだったのかもしれない。


技術は時代とともに変わる。
だが、変わらない信念や疑問を持ち続ける人は、いつの時代にもいる。
その存在を“老害”と切り捨てた瞬間、
私たちは「考える自由」そのものを失う。


オブジェクト指向のメッキが剥がれた今、
私たちはもう一度、あの議論を思い出すべきだ。
それは「正しさ」の争いではなく、
“責任ある思考”をどう持つかという問いだったのではないか。




責任ある物語へ


物語は人を動かす力を持つ。
だが、嘘の物語は、いつか誰かの現実を壊す。


「staticおじさん」という言葉を笑ったあの日から、十数年。
オブジェクト指向の理想は現実に疲れ、
AIがコードを書く時代になろうとしている今、
私たちはなお物語を作り続けている。


だからこそ、今こそ「責任ある物語」が必要だ。
誰かを貶めることで安心を得る物語ではなく、
異なる立場を理解し、語り合う物語を。
それが、技術文化を再び人間の手に取り戻す唯一の道だろう。




この文章は、ChatGPTとの共同作業により作られています。


2025-10-26 | コメント:0件

正解主義の文化とプログラミング教育の危うさ

―「考える力」と「信じる安心感」のあいだで―


前回は「staticおじさん」現象を手がかりに、
ネット社会における“同調の構造”と“技術信仰”について考えました。
今回はそこから一歩進めて、
「なぜ私たちは“正解”を求めすぎるのか?」というテーマを扱ってみたいと思います。




「正しい答え」を求めすぎる社会


技術の世界、とくに日本のエンジニア文化では、
「正しい答えを知ること」自体が目的化してしまう傾向があります。
これは学校教育の影響が大きいでしょう。
正解が一つに定まるテスト文化の中で、
「悩むこと」や「保留すること」が評価されにくかった。


プログラミング教育にもその名残があります。
クリーンアーキテクチャ、デザインパターン、SOLID原則……
“正しい書き方”は数多く提示されますが、
それらがどんな文脈で、どんな痛みから生まれたのかを学ぶ機会はほとんどありません。


結果として、手法は暗記され、思想は抜け落ちる。
そして、「何が正しいか」だけが一人歩きするのです。




「正しさ」の呪い


こうした文化の中で、「正しさ」は一種の呪いになります。
何か新しい設計を提案すれば、すぐに「それは間違いだ」と反応が返ってくる。
それが本当に間違いなのかどうかではなく、
“教科書(コードコンプリート)に書かれていない”というだけで排除されるのです。


この現象の根底には、「考えることの恐怖」があります。
自ら考えるという行為は、
自分の中に“わからない”を抱えることでもある。
しかし、わからないままでいることに耐えられない人々は、
「答えを持つ人」に安心を求めてしまいます。
それが宗教のように“信じる技術文化”を生むのです。




プログラミング教育の逆説


教育現場では、「考える力を育てる」と言われます。
しかし、現実には「模範解答を暗記する力」が評価されがちです。
プログラミング教育においても、
“どの言語を使うか”“どの設計が正しいか”といった形式面に議論が集中し、
「なぜそうするのか」「どんな痛みを避けたいのか」といった
本質的な問いが置き去りにされています。


たとえば、「グローバル変数は悪」という常識があります。
しかし、それがどのような歴史的背景で「悪」とされたのかを知る学生はほとんどいません。
そこに文脈がないまま、「禁止事項」としてだけ教えられる。
それでは“思考するエンジニア”は育ちません。




「正解」よりも「判断」


これからのプログラミング教育、あるいは技術文化全体に必要なのは、
「正解を教える」ことではなく「判断を育てる」ことだと思います。


正解は、過去のある時点で有効だった一つの答えにすぎません。
しかし判断とは、目の前の状況・制約・目的に照らして、
「今回はこうする」と決めることです。
そしてその判断の積み重ねが、経験であり、設計力になります。


つまり、“正しさ”は借りられるが、“判断”は自分でしか育てられない。
その違いを理解しないまま、
「正解主義」に取り憑かれた技術文化はいつまでも他人の理想を追い続けるだけです。




「考え続ける」という勇気


結局のところ、プログラミングとは「考え続ける行為」です。
最適解など存在せず、昨日の正解が今日には不適切になっていることも珍しくありません。


それでも、他人の正解にすがらず、
自分の頭で考え続ける――その不安を抱えながらも歩み続けること。
それこそが、技術者(エンジニア)としての誇りであり、自由の証なのではないでしょうか。




この文章は、ChatGPTとの共同作業により作られています。


2025-10-19 | コメント:0件

マイナ保険証(2025年7月)資格確認証を入手しました

 Youtubeの方ではマイナンバー問題ということでちょいちょい動画をアップいましたが(こちらが再生リストになります)、ここ数か月動画の更新をさぼっていましたが、この度資格確認証を入手しましたのでそれについての記事になります。


資格確認証を取得するメリット(ほぼ今までどおり保険診療が受けられる)


 マイナ保険証については過去にトラブルが発生しその検証・対策もまるで素人がやっているようで(詳しくはマイナンバー問題)、今後もきちんと運用がされるかどうか怪しいところがあります。
こういう状況で安心して保険診療を受けられるようにするには『資格確認証を取得する』ことが選択肢になるでしょう。具体的には、マイナ保険証の利用登録解除(および場合により多少の追加手続き)を行うと「資格確認証」が送られてくるようになります。これは従来の保険証とほぼ同じものであり、今後も従来どおりの保険診療が受けられるようになります。政府は「デジタルだ!」といいながら、不完全な(ベータ版としか言いようのない)システムを導入しているが、そんな不完全なシステムが引き起こすトラブルにいちいち付き合う必要はないでしょう。
ちなみに、2025年7月時点での利用登録解除は数万件程度であり、今の段階では比較的スムースに登録解除ができるようです。今年は私のマイナンバーカードの更新年で、新しいカードを取得するのに2か月半かかったが、利用登録解除はそれよりはるかい迅速に手続きができるようです。一度登録解除を行い、二度と登録しないようにすれば、今までどおり安心して保険診療が受けられるようになります。


マイナ保険証でよいのではないか?


 現在、マイナ保険証を利用しており特段問題がない方はそのまま利用するのも手であります。
もっとも、マイナ保険証を利用するには2つ程注意点があります。
1点目は、マイナ保険証での受付が出来ない場合があるということで政府をそれに対する対応策を示しています。要はマイナ保険証だけでなく「資格情報のお知らせ」を持った方がよいということで、マイナ保険証だけでは窓口でトラブルとなる可能性がある。
2点目は、マイナンバーカード(電子証明書)の有効期限を意識しなければならないことで、5年目(5回目の誕生日)で電子証明書の更新があり、10年目(10回目の誕生日)でマイナンバーカードの更新があります。更新を忘れるとマイナ保険証が使えなくなる。『その場合どうなるか?』ということがあるが、最終的には資格確認証が送られてくることになるが、それなら資格確認証でよいということになる。
もちろん、今後システムの完成度が上がり、マイナンバーカードの更新が習慣化すればマイナ保険証で受診するのが当たり前となるかと思われるが、時間はかかるかと思われる。


マイナ保険証の利用登録解除とそのデメリット


 利用登録解除を行うには、保険者(保険証に記載がある)に連絡することになる。保険者の名称からWEBで検索を行ってホームページから『利用登録解除』の方法を調べることになる。国民健康保険・後期高齢者医療保険は市町村に問い合わせることになる。サラリーマン等のいわゆる厚生年金加入者は健康保険組合と呼ばれる団体に問い合わせることになる。
サラリーマンの方が利用登録解除を行い、資格確認証を取得しようとすると、場合によっては資格確認証が会社に送られてくるかもしれない。多くの中小企業が入っている全国健康保険協会(いわゆる協会けんぽ)の東京支部の場合は、会社に送られてきた。また全国健康保険協会は会社に対して従業員に『マイナ保険証を使うように』と通知を行っており会社員の方にとってはプレッシャーとなるかもしれない。その他、確定申告時に医療費控除を受ける際に領収書を集めておかなければならないとか一定の不便さがある(このあたりは従来どおりと言えば従来どおりである)ので今一度、マイナ保険証のメリットを再確認して、メリットが失われた場合に本当に困らないかどうか、念の為、確認する必要があるでしょう。


2025-08-03 | コメント:0件

変な人

ここ1年ほど続いた炎上プロジェクトですが、奇跡的(?)にやっと落ち着き定常運転ができるようになったのですが、やることはまだまだたくさんあるので全くもってヒマがないので、更新もすっかりご無沙汰になったのですが、そのおかげで変な人の付きまとい行為も減り結果オーケーではある。

変な人というと総務省が、「独創的な人向け特別枠(仮称)(通称:変な人)」というのを募集するようです。

『「Disruptive Change」:世界的に予測のつかないICT分野において、破壊的な地球規模の価値創造を生み出すために、大いなる可能性がある奇想天外でアンビシャスなICT技術課題に挑戦する人を支援。閉塞感を打破し、異色多様性を拓く。』
とか
『*ゴールへの道筋が明確になる価値ある「失敗」を奨励』
ということで、来年あたりならヒマができるのでADPを引っ提げて応募しようかと考え、調べていたら色々思うことがあるので、コメントします。

そもそもなぜこのような政策を実行するのか?つまりこの政策の背景ですが、『イノベーション創出委員会』ということろがとりまとめを行っています。とりまとめの案が以下から読めます。
イノベーション創出委員会最終とりまとめ(案)に対する意見の募集

あとインタビュー記事が以下にあります。
「俺の言うことがわからん奴はバカ」という人が欲しい--総務省のイノベーション創出事業“変な人”

これらをみて思ったのは、やはり日本は衰退に向かっているんだということで、さらに残念なことに国家や大企業ではそれを克服できないんだなということです。私の経験から一言で言えば潰れかけの会社が色々足掻いているという印象がぬぐえないです。
もちろん、座して死を待つよりは遥かにましですし何事もチャレンジすることはいいのですが、例えば、上記の記事をみますと変な人の育成方法は、『いまのところ決まっていない。』とか、いやいや人任せにせずにそれぐらいは自分で決めましょう突っ込みが出てきて思わず心配してしまいます。

また、
『「なぜ“変な人”という表現ではダメなんだ。“独創的な人”より伝わりやすいじゃないか。これだからイノベーションが起きないんだよ」―こう指摘したのは元総務副大臣の○○○○という。』
については、言葉尻をとらえた本質的でない所で熱く議論をしているんだ税金を使って・・・と思わざるを得ない。まぁ成長が鈍化した会社の会議なんかで見る光景ではあるのですが・・・。
イノベーションとは常識を理解した人があえてそれを破ることから起こると考えているのだが、つまり温故知新ですね。スティーブ・ジョブズの例で言えば、Macintoshの開発逸話を読めば、彼が変な人だとは思わないはずで、卓越したプロデューサーというのが私の印象になります。まぁ私にはできないですね。

記事では変な人を探す理由として、イノベーションのジレンマをあげています。
イノベーションのジレンマとはWikipediaによると『巨大企業が新興企業の前に力を失う理由を説明した企業経営の理論』ということです。つまりイノベーションのジレンマとは今の日本の状況を説明するものではなく単に大企業が衰退する理論的な説明にしかすぎないです。まぁ日本の新陳代謝を促す為、世界で戦えない大企業に関しては潰れて頂いてもよいかと思うのでイノベーションのジレンマは歓迎ということになります。
ちなみに記事からはあたかも今の日本ではイノベーションが起こっていないという印象を受けますが、日本でイノベーションは私の半径3メートルでもみることができる。
ほんの5年前までは、ガラケーを使いながら『スマホってなに?』といっていた人たちが今ではスマホでガンガンゲームをやっている。スマホ歴自体は私の方が長い(7年以上)のだが、その適応力をみると個々人でみた場合、日本人のテクノロジーを扱うポテンシャルは全く衰えていないと実感する。スマホは確かに海外発のテクノロジーかもしれませんがその中に入っているアプリは日本で作成されいます。
『たかがスマホのゲーム』と思うかもしれないが、5年前と今で電車内の人のようすを比べますとまさにイノベーションが起こったといってもよいでしょう。

というわけで、政府や大企業が危機感を持っているのは解ったのですが、まぁ既得権益を享受している組織は、今の状況は芳しくないと考えているようですが、破壊的イノベーションはそういう既得権益者が破壊されるとこではないのか?という疑問が出てくるのですがどうだろうか?

ちなみに私の半径3メートル以内の話になりますが、個人に入るかどうかは別として優秀な人はそれなりにお金をもらって仕事をしており、300万では対したことができないのだが、相場というものを理解していないのでしょうか?もっとも例えばこの事業が自宅警備員のような方に対する支援なら全くもって理解できなくもないですが、それでも『金は出せないがお前ら頑張れ』という昔居た会社の上司が言っていたセリフが思い出されます。その返答としては、だったら君たちがその金でイノベーションを起こしなさい、ということで今年の応募は見送りますが、もっとも何事もチャレンジすることはよいことですので、ちょいちょい様子をみてみましょう。
2014-06-07 | コメント:0件
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