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大学全入時代とポストLLM時代の「知性」

Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」


前回までで言いたいことを言ってきたのですが、Xを見ていると違和感が残る点がありましたので個別に雑記を書きます。


全入時代の違和感、足きりは必要では?


 前回の記事にも書いたのですが、「誰にでも高等教育を!」というのは一見スローガンとしては美しいのですが、物凄い違和感があります。特に大学の存在理由として挙げられると矛盾を感じます。


私が18歳の時に大学に入った理由が「化学者になりたかった」のですが、入った大学の実態は「就職予備校」のようで、要するに「学生に考えさせないで上役からの命令を聞くようにする」という一種の洗脳教育のようでした。言うまでもないですが高等教育というのは「考える力を養成するところであり、(内容はどうでもいいから)期日までに指定されたページ数のレポートを書く」ということではないはずです。この手の批判をすると「今の大学は違う」という反論が来るのですが、前回までの記事のとおり、当の教える側がどこまで「学生に考える力をつけさせるか?」は疑問です。というかそもそも論になるのですが、30年前の大学と今の大学の実態がそんなに変わるのでしょうか?という疑問もあります。
大学が就職予備校でないと言うなら、企業は大学教育を職業訓練として信用しなくなる。そうなれば大学名でフィルターを掛けるのも、企業側からすれば自然でしょう。


関連してですが、当時、私自身が感じたことは、上記のような「就職予備校は要らないので、もう働きたかった」というのがあります。大学をやめる理由が後から出てきてすみませんが、当たり前ですが、大学をやめるときには色々考えまして「既にIT関係の資格を持つものとしてはわざわざ職業訓練は不要で、これなら働いた方が良い」というのも1つあります。つまり、就職予備校なら既に就職する意識や実力がある者にとっては意味がないでしょう。「誰でも入れる」というのと「皆が入る」というのは違うということです。


別の指摘になりますが、「門戸を広げるのなら、別に18歳になって大学に入る必要はないでしょう」ということもあります。『学び直しは何時でもできる』という意味での門戸を広げるのは有意義ですが、「それを学力の無い人間にまで広げるのが高等教育なのか?」ということについては疑問が残ります。例えば、小学生の範囲を学び直すのなら小学校(相当)のもので良いでしょうということです。つまり成熟した国家として学び直しのインフラは必要でしょうが、小学校の内容を大学が引き受ける必要はなく、それぞれ看板にあった教育をすれば良いということになります。
今なら本気で学び直しがしたければYouTubeでいくらでも勉強はできますが、わざわざ小学校の内容を数百万払って学ぶ必要はあるのか?ということになります。


大学関係者が偏差値について「意味がない」ということについて


意外なことですが大学関係者の方で、「偏差値は意味がない」という発言が目立ちました。
「大学の偏差値というのは、テレビの視聴率のようなもので、批判するのは構わないがある程度は受け入れる必要があるのではないか?」というのが率直な感想になります。
テレビの視聴率が悪いときにスポンサーに「視聴率は意味がないです」というようなもので、色々理屈はあるのでしょうが、入学しようとする学生に対して「偏差値は意味がない」と言われると私としては「逃げているな」としか思えません。


 ”Fラン”という言葉に対する大学関係者のアレルギーも感じます。これは「大学を減らせ」という議論が「Fランを減らせ」という議論に置き換わり「必要なFランもある」という論法が展開されています。Fランですが、確かに差別を伴った侮蔑的な言葉ですが、そもそもFラン(ボーダーフリー:偏差値が計算できない)という状況が本来大学に求められたものからの逸脱という点を考慮したほうが良いでしょう。それだけ魅力的な大学ではないということも言えますし、急激に大学を増やした結果の弊害とみるべきだと思います。
特に大学を減らすという政策の転換についてはこれ以上、Fランに限らずに不要な大学を増やしても社会に対してはプラスにはならないという至極当然の理由があるでしょう。


このあたりを大学関係者はどのように思っているか聞きたいものですが、この批判に対して「誰にでも高等教育を!」というスローガンで返してしまいますと「現実から逃げている」としか受け取れないです。


ちなみに私自身の話になりますが、大学をやめてから、大学中退者というレッテルを甘んじて受け入れました。何回か会社に転職もしまして、応募するときは「大卒者」ではないのでそういう企業には入れませんでしたが、そこそこいい企業に中途採用で採用されました。30年前のITエンジニアという特殊な状況だったということもありますが、募集要項に大卒と書かれても書類選考で落とされなかったこともあります。記憶は曖昧なのですが「なぜ大学をやめたのですか?」ということはあまり聞かれなかったように思います。とある企業の役員面接で「なぜやめたのですか?」と聞かれたので「こんなところを卒業したらヤバイと思ったから、実際にバブルが崩壊して同級生は就職に苦労したものもいると聞く」といったら「それは結果論だろ!」と突っ込まれましたが内定に至りました。


AI(LLM)の限界と大学教育


 実は、大学関係者自身が恐らくは日々恐怖を感じながらかつどうしようもないと思っているだろうという点が、AIの台頭ということでしょう。
AIというかLLMの限界については、数理モデルからの研究があり、例えばHallucination Stations が示唆に富んだ指摘をしています。
ざっくりいうと、世の中には、原理的に膨大な計算(指数爆発)を必要としている問題があり、今のLLMが行っている計算量(N^2)では解くことができない。それでハルシネーションが起こるという話です。体感的にも分かる話ですし、実務的にはもっと様々な理由からハルシネーションが起こる(例えばそもそも学習していないことについては分かっていないがそれらしく答えてしまうなど)もあるかと思います。


LLMの台頭は明らかに一定の職業の人(特に翻訳者)から職を奪いつつあるでしょう。ただ、実際にはLLMにも限界があり、私自身は日々感じているところです。
具体的な話をするとこのブログはAIに書かせると「私自身が全く面白くなくなる」ということで自分で書いて校正させています。AIではこの論調の文章は出てこないです。
別の例を出すと、一時期「ジブリ風のイラスト」が流行りましたが、今使っている人はあまりいないでしょう。これは昔の「ホームページにFlash」と同じような印象を与えるのか、そもそも絵が「ジブリ風」であって「ジブリでない偽物」ということが伝わるのか、私は、両方だと思っています。(いま使っている人はゴメンなさい)。


上記の論文だったり私のAIとの会話での実感なのですが、ある種の楽観的なことをいうと私自身は「LLMが人間から全ての職を奪う」というのは考えられないです。多分10年も経てばLLMに対する常識ということである程度LLMの使い方が社会に浸透すると感じています。


高等教育を銘打つならこのあたりの「AIの限界を超えた教育」というものを実践してほしいのですが、残念ながら今の日本だと「国産LLMを!」と後追いをするか、AI礼賛に陥るか、少々感情的かつ的外れな批判に流れているようにも思えます。もちろんですが、深い考察を行っている研究者の方々もいますし、そういう文章も読みますが、ある意味AIに対する深いツッコミをもっと多くの研究者に期待したいところですが、昔話のような「内容はどうでもよいが指定されたページ数のレポート書く」という課題を与えていた大学にできるのでしょうか?


そうは言ってもAIは世の中を変える


 上の偏差値の話と一見矛盾しますが、LLMの台頭により、「知性のランク付け」というか、大学のランクというものも変わる可能性があるでしょう。つまり従来型のテストで測る知力というのはLLM時代には意味のないものなりつつあります。過去の例をあげると、2026年現在、社会人として漢字を手書きできないということはあまり問題にならないでしょう(実際に私は多くの漢字を書けないです)。一方で、40年前(1986年)当時なら多くの人が手書きで文章を書いていましたので、漢字が書けないということは知性がないとなったでしょう。
もっというと綺麗な文字を書くということも言われました。私の書く文章は汚いのでよく親に注意されましたが、今なら笑えない昔話ですね。
40年前と言えば、仕事でコンピュータを使うということはあまりなかったかと思いますが、今ではパソコンが使えない人は就職もままならないでしょう。
LLMが起こしているパラダイムシフトはもっとラジカルなものでしょうが、本質的には「人間の知性についての再定義をせまっている」とも言えるでしょう。


LLMが東大の入試問題を解いたというニュースは「実は東大の入試問題はそれほど知的ではなかったのか?」という問いかけを我々に投げかけます。この事実とハルシネーションの間に、「パラダイムシフトへのヒント」が隠されているように思えます。「偏差値は意味がない」という関係者の方はぜひ、LLM時代の人間の知性について議論をしてほしいものです。


Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:SNSでの大学のリストラの議論で思うこと


2026-05-17 | コメント:0件

ウォーターフォール vs アジャイル論争の誤解

最近、とあるAI絡みのプロジェクトでLLMを使ったシステムの研究開発をやっておるのですが、個人的に応用が利くものができつつあると実感しているのですが、一方で、今は広める訳にはいかないので、成果の一部を小出しにします。


ちなみに、「オブジェクト指向おじさん?」の記事については、「感情的である」というAIからのご指摘を受けてそのうち修正を行いたいと思います。


以下本題、下記の記事にコメントします。


なぜ、「ウォーターフォールでソフトウェアを作れる」という嘘を信じる人が世の中にいるのか?
ウォーターフォール開発がダメなのかは、弁護士が請負契約で仕事しないことでわかる?

あくまでも個人的な感想ですが、どうもAIを活用した論調の記事だとは思うのですが、私のAI分析が良い感じだったのでその成果ということであえてコメントします。


1.はじめに:プロセス論争の空虚さと顧客の関心


 まず、結論ですが、ウォーターフォールだろうが、アジャイルだろうがその場にあった方法でどうぞとなります。
「プログラマ」ではなくある種のコンサルタント的な立場の人間(SEや営業、アーキテクトもその一人かもしれません)、つまり上司やプロジェクトリーダの元での作業ではなく、非エンジニアの顧客(情報システム部門の方でも、そうでない方でも)と直接話をする場合にわかるかと思いますが、おそらく99%の顧客の関心事項は


金をどぶに捨てることにならないか?(何らかの成果物が出てくるか?)


ということです。顧客目線に立てばウォーターフォールが良い場合もあればアジャイルが良い場合もありますし、ウォーターフォールだろうがアジャイルだろうが、最終的にモノが出来なければ「修羅場」になるということです。


2.契約形態がプロセスを決める


 まともな顧客は、RFP(Request for Proposal)を用意して提案書(見積)を求めてきます。
そうでなくても「こんなシステムを作りたいのだが・・・」からはじめに打合せを行ってから、ある程度「何を作るか?」を話し合ってからの見積となります。
この場合、ウォーターフォール開発が想定されるような「システム開発」の場合、ほぼ間違いなく


完成保証があります。


つまり請負契約になります。ここで『ウォーターフォール開発がダメなのかは、弁護士が請負契約で仕事しないことでわかる?』とありますが弁護士が請負契約をしない最大の理由は「原理的に完成保証ができない」からです。つまり裁判になったときには必ずどちらかが負けます。弁護士が仕事を受けるときには原理的に「勝ち」を保証できないことになります。


3.不確実性の正体:本質・要求・技量の3層構造


 一方でソフトウェア開発の場合は、「不確実性」があったとしても顧客と開発者が成功に向けて協力すれば、「何を作るか?」ということに関しては何らかの合意ができることが多いです。また、記事にあるような『不確実性が高い』というのは、ソフトウェア開発が持つ「本質的不確実性」の他に、開発するエンジニアの技術不足や経験不足「技術的不確実性」ということもあります。もちろん顧客の都合で仕様が変わる場合「要求不確実性」もあり、これらをきちんと見極めないと、アジャイルといって何回も工程を繰り返しても「いつまでたってもできない」ということもあります。


つまり、ウォーターフォールかアジャイルかの問題ではなく、これら3つの不確実性のうちどれをどの時点で誰が負担するかの問題になります。


「完成保証なんて出来ない」と思っている人もいるかもしれません。当然ですが、ここは現状に合わせて適宜修正を行うことになります。「出来るかどうかわからない」という状態はウォーターフォール開発的に言えば「要件定義が終わっていない」ということになります。実はウォーターフォール開発でも現状分析や要件定義などのいわゆる上流工程は原理的に「完成保証」ができません(し実務上もしません)。要件定義がまとまっても技術的にできないことが後になって発覚する場合もあり得ます。そういうのを防ぐ為にも「プロトタイプ」を要件定義の間に行うこともあります。また、テスト工程では「要件定義のバグ」も考慮して期間や費用の見積もりを行った方がよいでしょう。
私の経験では、要件定義の段階で大体プロトタイプを作成しますしそれなりの費用をいただいております。


4.ウォーターフォールの利点:仕様確定による“境界の明確化”


 ウォーターフォール開発の利点の一つですが、「仕様を確定させる」というのがあります。これはお客からの理不尽な要求を抑止する効果があります。もっとも「全ての追加要求を突っぱねる」というのは営業的に問題がありますし、私も「当初の約束でないタスク」をしたこともありますが、一定の線引きがないと収拾がつかなくなります。


仕事というのは契約なので「何を何処まで、幾らでどの期間で」というのを確定させるには工程もある程度は確定している必要があります。ウォーターフォール開発というのは、一般的なビジネス習慣と親和性が高いということになります。


5.アジャイルの曖昧性:誰にとってアジャイルなのか?


 一方でアジャイルという言葉には曖昧性が含まれています。つまり誰にとってアジャイルか?ということです。顧客企業にしてみれば「仕様変更がアジャイル」というかもしれませんが、上記の筆者の言いたいことは「アジャイルは完成保証を前提としない」というこのように読み取れます。こういう認識の違いは、ウォーターフォール以上に、後工程でほぼ確実に契約上の衝突として顕在化します。避けたいところです。アジャイルと言って何でもかんでも「不確定」としてはいけません。
『『アジャイル開発の失敗率は268%も高い』のコメント欄が面白かったので紹介するよ』という記事もあるので、基本的に開発プロセスについてはそもそも比較自体が怪しいということは知っておいた方がよいかと思う。


6.信頼関係がプロセスを決める


 また、アジャイル開発外部委託モデル契約についてを引用しますと『アジャイル開発においては、開発過程において仕様変更を柔軟に受け入れる場合や、そもそも仕様が明確でない場合等がある。しかし、こうしたアジャイル開発の特徴に対するユーザ企業側の理解が十分でない場合には、期間内に成果物が完成しない等により、ユーザ企業とベンダー企業の間でトラブルとなるケースも発生するとの指摘がある。』とあります。
つまり、ウォーターフォールでもアジャイルでも、モノができなければ揉めます逆説的になりますが、経験上、信頼されている開発者(会社)は顧客からアジャイル(準委任)を要望され、信頼されない開発者(会社)は顧客からウォーターフォール(請負)を強制される傾向があります。
つまりプロセスは技術的な選択というよりも、信頼関係の結果として決まる側面もあり、あまり声高にアジャイル(準委任)を叫ぶと逆効果ということもあります。


7.経験談1:信頼関係が育んだ自然なアジャイル


 ウォーターフォール vs アジャイルと見てきましたが、『信頼されている開発者(会社)は顧客からアジャイル(準委任)を要望され』ということで、私もアジャイル的に開発を進めたことがあります。つまり顧客と長い付き合いになり、いい意味でなし崩し的になると、開発スタイルとして「プロトタイプ1」、「プロトタイプ2」・・・「完成!」、みたいなことがありました。これはいちいち顧客の要望を細かく聞かなくても、モノを見せながら適宜(アジャイル的に)直していけばいいやという感じで成立していたこともあります。


8.経験談2:究極のアジャイル


 その他の印象に残るアジャイル的な開発プロジェクトになりますが(まぁ時効ということで告白しますと)、ある意味ぶっ飛んだプロジェクトで、ソフトウェアのリリースが直前になって差し止められるという究極のアジャイル、を経験しました。これは笑い話のようでいて、「価値判断が最後まで確定しない」という意味では、現実に最も忠実な開発プロセスだったのかもしれません。数か月の努力が無になったのですが、お金をもらった以上こちらとしても問題なく、上記の例外の1%ということで、私の経験上これ以上のアジャイルはないかと思います。

2026-04-15 | コメント:0件

東京都がAIを使って、業務アプリを開発・共有するらしい

 東京都、内製AIプラットフォーム「A1」本格運用開始 職員がノーコードで業務アプリ開発・共有


 今に始まったわけではないが、IT系の新しい技術が出てくると、まるで冷やし中華のように「○○始めました」という記事が出てきます。もちろん当人たちは真剣(?)にやっているかと思いますが、ただ流行りを追っかけているだけとうことであれば資源(この場合税金)の無駄遣いになります。


 ということで、いち東京都民として、税金の無駄遣いにならないか検証するために、覚書ということでメモします。一年後ぐらいに検証できればと思います。

2026-04-14 | コメント:0件

次世代のプログラミング言語とは?

AIによって、プログラマーが淘汰されようかという今になって「次世代のプログラミング言語とは何を言っているのか?」と返されそうですが、今とあるプロジェクトをやっておりまして(具体的なことは控えます)、AI時代に必要なプログラミング言語についてより意識するようになってきました。


■ 現在のAIプログラミングの構造


今までのプログラミングとは「人間からコンピューターへの指示」ということでした。ではAI時代になると何が変わるのでしょうか。


現状、AIを使ったプログラミングは次のような形になります。


人間 → [自然言語(プロンプト)] → AI → [プログラム] → コンピュータ



■ 次世代言語という発想


これについてまず考えられるのは、次のような形です。


人間 → [次世代言語] → AI → [プログラム] → コンピュータ

つまり、人間とAIの間に共通言語を持てないか、という発想です。


さらにいうと、


人間 → [次世代言語] → AI → [次世代言語] → コンピュータ

ここまで踏み込めれば、AIが生成した内容も(原理的に)人間が確認可能になります。
つまり、問題が発生したときに「何が意図されていたのか」を追跡できるようになります。




■ 想定される批判


ここで当然、次のような批判が出てきます。


人間 → [次世代言語] → AI
AI → [次世代言語] → コンピュータ

同じ言語を使うのであれば、AIは人間が入力した内容をそのまま返すだけではないか、というものです。


実際に、そういうことは起こり得るでしょう。




■ それでも何が便利なのか?


ポイントは、人間・AI・コンピュータの間で共通言語を持つこと自体にあります。


自然言語ではなく、このような言語を想定する理由は以下のとおりです。


  • 表現にムラがなく、曖昧性を排除できる
  • 最終的に機械で実現可能な形に落とし込める

一方で、従来のプログラミング言語との違いは、


  • 人間が理解可能な抽象度を保つこと

にあると考えています。




■ 実は新しくない発想


このアイデアは一見すると突飛に見えるかもしれませんが、実は全く新しいものではありません。


第5世代コンピュータで目指されていた、論理型言語の思想に近いものです。


論理型言語の代表格であるPrologは、当時日本でも注目されました。
また、このブログでたびたび触れているADPも、Prologをベースとしています。


また、Grokに言わせるとLLMとPrologをつなぐアイデアは既に研究対象となっているようです。AIに聞けば多数出てくるようです。下記面白そうなもの2点をピックアップします。


Arithmetic Reasoning with LLM: Prolog Generation & Execution
LLMが自然言語の算術問題からPrologの述語・ルールを生成し、Prologインタプリタで実行。CoT(Chain-of-Thought)より精度が大幅に向上した実験。


LLM and Prolog: the logical alternative to chain-of-thought reasoning (Medium, 2025)
金融領域での実践例。LLMが自然言語からPrologルールを抽出し、シンボリック推論エンジンで処理。非常に読みやすい解説。


そりゃPrologを知っている人なら絶対に考えるよなという話ですね。




■ 宣言的という考え方


Prologのような言語は「宣言的」と呼ばれます。


つまり、


  • 「何を作るのか?」にフォーカスする
  • 「どう作るのか?」は実行系に委ねる

という考え方です。


現在のAIによるコーディングもこれに近く、人間が「何を作るのか」をプロンプトで与え、「どう作るか」はAIが担っています。




■ 批判への一つの答え


この役割分担を前提とすると、


「AIは入力をそのまま返すだけではないか」


という批判にも、ある程度対応できます。


もう少し踏み込んだイメージとしては、


  • 人間は「満たすべき条件」(述語)を定義する
  • AIはその実装(述語の本体)を生成する

という形です。


ここでいう「述語」は論理型言語の用語で、「関数」に近い概念です。


処理手順ではなく「満たすべき条件」を中心に表現することで、結果の妥当性を人間が確認しやすくなります。




■ 現実的な課題


とはいえ、このような構想は「言うは簡単で実現は難しい」ものです。第5世代コンピュータプロジェクト自体が頓挫した経緯もあり、AIを使えば当時の問題は解決できるのか?という問いは依然として残ります。

具体的には、


・人間に読みやすいと言ってもPrologはコンピュータよりの言語である。
・宣言的といっても、それだけですべてが上手くいくわけではない。Prolog自体が流行っていない。
・現実案としては、コメントがAIに対する補足(プロンプト)になるが、そうすると自然言語が残ることになる。


というジレンマがあります。特に「宣言的プログラミング」とは当時一瞬流行ったパラダイムになりますが、純粋さを追求すると却ってコードを分かりにくくする側面があります。またAIの出力は手続き的にもなりえます。このあたりの折り合いをどうつけるのかというのが課題かと思います。

このような「純粋な理論」と「現実の泥臭さ」の板挟みを解決するために、私は一つのアプローチをとっています。例えば、ADPは、Prologをベースにマルチパラダイムを追求しています。つまり純粋な宣言的なパラダイムを捨てて、手続き的にも書けるようにしています。このあたりの落としどころが現実的ではあるかと思います。




■ 最後に


もっとも、私自身も30年ほど前にこうしたアイデアの断片を考えたことがあります。


さらにいうと、ADPの機能として次世代言語に必要な要件を備えることができれば、ADPそのものが次世代言語になり得るのではないか、とも思っています。


夢は広がりますが、まずは時間を見つけて少しずつ形にしていきたいところです。


2026-04-06 | コメント:0件

What Is a Next-Generation Programming Language?

■ The Structure of AI-Assisted Programming Today


Traditionally, programming languages have been a way for humans to instruct computers. So what changes in the AI era?


Today, AI-assisted programming typically looks like this:


Human → [Natural Language (Prompt)] → AI → [Program] → Computer



■ The Idea of a Next-Generation Language


From here, one natural idea is:


Human → [Next-Generation Language] → AI → [Program] → Computer

In other words, can we introduce a shared language between humans and AI?


Taking this a step further:


Human → [Next-Generation Language] → AI → [Next-Generation Language] → Computer

If this were possible, then—even in principle—humans could verify what the AI produces.
When problems occur, we could trace and understand the original intent behind the system.




■ Expected Criticism


At this point, a natural criticism arises:


Human → [Next-Generation Language] → AI  
AI → [Next-Generation Language] → Computer

If the same language is used on both sides, wouldn’t AI simply return what the human provided?


In fact, this can certainly happen.




■ So What’s the Benefit?


The key point is the value of having a shared language across humans, AI, and computers.


Why not just use natural language?


  • It introduces inconsistency and ambiguity
  • It is not directly executable by machines

A next-generation language would instead aim to:


  • Eliminate ambiguity
  • Be directly translatable into executable form

And compared to traditional programming languages, the key difference would be:


  • It maintains a level of abstraction that humans can understand



■ Not Actually a New Idea


This idea may sound radical, but it is not entirely new.


It is closely related to the concepts explored in logic programming languages during the Fifth Generation Computer era.


For example, Prolog—one of the most well-known logic programming languages—was once widely discussed in Japan.
The language I’ve mentioned occasionally in this blog, ADP, is also based on Prolog.




■ The Declarative Approach


Languages like Prolog are often described as declarative.


That means:


  • Focus on what should be done
  • Leave how to do it to the execution system

Interestingly, modern AI-assisted coding follows a similar pattern:
humans specify what they want, and AI handles how to implement it.




■ A Possible Answer to the Criticism


If we properly recognize this division of roles, we can respond to the earlier criticism that “AI would just return the input as-is.”


A more concrete idea would be:


  • Humans define conditions—what must be satisfied (predicates)
  • AI generates the implementation (the body of those predicates)

Here, a “predicate” is a concept from logic programming, somewhat similar to a function.


Instead of describing step-by-step procedures, we describe conditions to be satisfied.
This makes it easier for humans to verify whether the result is correct.




■ Practical Challenges


Of course, this kind of idea is much easier said than done.
The Fifth Generation Computer project itself failed, which raises the question:


Can AI solve the challenges that existed back then?


More concretely, several dilemmas remain:


  • Even if we aim for human readability, Prolog is still closer to a machine-oriented language
  • Declarative approaches alone do not solve everything—Prolog itself never became mainstream
  • In practice, comments may act as prompts for AI, which means natural language still remains in the system

This creates a fundamental tension.


Declarative programming was once a briefly popular paradigm, but pushing it too far can make systems impractical.
At the same time, AI-generated output can also be procedural.


How to balance these aspects remains an open challenge.




■ Final Thoughts


That said, I personally had fragments of this idea over 30 years ago.


And if the language I’m developing—ADP—can incorporate the necessary characteristics of such a next-generation language, it might itself become one.


It’s an ambitious thought, but for now, I’ll continue working on it little by little, whenever time allows.

2026-04-05 | コメント:0件
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