Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」
前回までで言いたいことを言ってきたのですが、Xを見ていると違和感が残る点がありましたので個別に雑記を書きます。
前回の記事にも書いたのですが、「誰にでも高等教育を!」というのは一見スローガンとしては美しいのですが、物凄い違和感があります。特に大学の存在理由として挙げられると矛盾を感じます。
私が18歳の時に大学に入った理由が「化学者になりたかった」のですが、入った大学の実態は「就職予備校」のようで、要するに「学生に考えさせないで上役からの命令を聞くようにする」という一種の洗脳教育のようでした。言うまでもないですが高等教育というのは「考える力を養成するところであり、(内容はどうでもいいから)期日までに指定されたページ数のレポートを書く」ということではないはずです。この手の批判をすると「今の大学は違う」という反論が来るのですが、前回までの記事のとおり、当の教える側がどこまで「学生に考える力をつけさせるか?」は疑問です。というかそもそも論になるのですが、30年前の大学と今の大学の実態がそんなに変わるのでしょうか?という疑問もあります。
大学が就職予備校でないと言うなら、企業は大学教育を職業訓練として信用しなくなる。そうなれば大学名でフィルターを掛けるのも、企業側からすれば自然でしょう。
関連してですが、当時、私自身が感じたことは、上記のような「就職予備校は要らないので、もう働きたかった」というのがあります。大学をやめる理由が後から出てきてすみませんが、当たり前ですが、大学をやめるときには色々考えまして「既にIT関係の資格を持つものとしてはわざわざ職業訓練は不要で、これなら働いた方が良い」というのも1つあります。つまり、就職予備校なら既に就職する意識や実力がある者にとっては意味がないでしょう。「誰でも入れる」というのと「皆が入る」というのは違うということです。
別の指摘になりますが、「門戸を広げるのなら、別に18歳になって大学に入る必要はないでしょう」ということもあります。『学び直しは何時でもできる』という意味での門戸を広げるのは有意義ですが、「それを学力の無い人間にまで広げるのが高等教育なのか?」ということについては疑問が残ります。例えば、小学生の範囲を学び直すのなら小学校(相当)のもので良いでしょう。ということです。つまり成熟した国家として学び直しのインフラは必要でしょうが、小学校の内容を大学が引き受ける必要はなく、それぞれ看板にあった教育をすれば良いということになります。
今なら本気で学び直しがしたければYouTubeでいくらでも勉強はできますが、わざわざ小学校の内容を数百万払って学ぶ必要はあるのか?ということになります。
意外なことですが大学関係者の方で、「偏差値は意味がない」という発言が目立ちました。
「大学の偏差値というのは、テレビの視聴率のようなもので、批判するのは構わないがある程度は受け入れる必要があるのではないか?」というのが率直な感想になります。
テレビの視聴率が悪いときにスポンサーに「視聴率は意味がないです」というようなもので、色々理屈はあるのでしょうが、入学しようとする学生に対して「偏差値は意味がない」と言われると私としては「逃げているな」としか思えません。
”Fラン”という言葉に対する大学関係者のアレルギーも感じます。これは「大学を減らせ」という議論が「Fランを減らせ」という議論に置き換わり「必要なFランもある」という論法が展開されています。Fランですが、確かに差別を伴った侮蔑的な言葉ですが、そもそもFラン(ボーダーフリー:偏差値が計算できない)という状況が本来大学に求められたものからの逸脱という点を考慮したほうが良いでしょう。それだけ魅力的な大学ではないということも言えますし、急激に大学を増やした結果の弊害とみるべきだと思います。
特に大学を減らすという政策の転換についてはこれ以上、Fランに限らずに不要な大学を増やしても社会に対してはプラスにはならないという至極当然の理由があるでしょう。
このあたりを大学関係者はどのように思っているか聞きたいものですが、この批判に対して「誰にでも高等教育を!」というスローガンで返してしまいますと「現実から逃げている」としか受け取れないです。
ちなみに私自身の話になりますが、大学をやめてから、大学中退者というレッテルを甘んじて受け入れました。何回か会社に転職もしまして、応募するときは「大卒者」ではないのでそういう企業には入れませんでしたが、そこそこいい企業に中途採用で採用されました。30年前のITエンジニアという特殊な状況だったということもありますが、募集要項に大卒と書かれても書類選考で落とされなかったこともあります。記憶は曖昧なのですが「なぜ大学をやめたのですか?」ということはあまり聞かれなかったように思います。とある内定をもらった企業の役員面接で「なぜやめたのですか?」と聞かれたので「こんなところを卒業したらヤバイと思ったから、実際にバブルが崩壊して同級生は就職に苦労したものもいると聞く」といったら「それは結果論だろ!」と突っ込まれましたが内定に至りました。
実は、大学関係者自身が恐らくは日々恐怖を感じながらかつどうしようもないと思っているだろうという点が、AIの台頭ということでしょう。
AIというかLLMの限界については、数理モデルからの研究があり、例えばHallucination Stations が示唆に富んだ指摘をしています。
ざっくりいうと、世の中には、原理的に膨大な計算(指数爆発)を必要としている問題があり、今のLLMが行っている計算量(N^2)では解くことができない。それでハルシネーションが起こるという話です。体感的にも分かる話ですし、実務的にはもっと様々な理由からハルシネーションが起こる(例えばそもそも学習していないことについては分かっていないがそれらしく答えてしまうなど)もあるかと思います。
LLMの台頭は明らかに一定の職業の人(特に翻訳者)から職を奪いつつあるでしょう。ただ、実際にはLLMにも限界があり、私自身は日々感じているところです。
具体的な話をするとこのブログはAIに書かせると「私自身が全く面白くなくなる」ということで自分で書いて校正させています。AIではこの論調の文章は出てこないです。
別の例を出すと、一時期「ジブリ風のイラスト」が流行りましたが、今使っている人はあまりいないでしょう。これは昔の「ホームページにFlash」と同じような印象を与えるのか、そもそも絵が「ジブリ風」であって「ジブリでない偽物」ということが伝わるのか、私は、両方だと思っています。(いま使っている人はゴメンなさい)。
上記の論文だったり私のAIとの会話での実感なのですが、ある種の楽観的なことをいうと私自身は「LLMが人間から全ての職を奪う」というのは考えられないです。多分10年も経てばLLMに対する常識ということである程度LLMの使い方が社会に浸透すると感じています。
高等教育を銘打つならこのあたりの「AIの限界を超えた教育」というものを実践してほしいのですが、残念ながら今の日本だと「国産LLMを!」と後追いをするか、AI礼賛に陥るか、少々感情的かつ的外れな批判に流れているようにも思えます。もちろんですが、深い考察を行っている研究者の方々もいますし、そういう文章も読みますが、ある意味AIに対する深いツッコミをもっと多くの研究者に期待したいところですが、昔話のような「内容はどうでもよいが指定されたページ数のレポート書く」という課題を与えていた大学にできるのでしょうか?
上の偏差値の話と一見矛盾しますが、LLMの台頭により、「知性のランク付け」というか、大学のランクというものも変わる可能性があるでしょう。つまり従来型のテストで測る知力というのはポストLLM時代には意味のないものなりつつあります。過去の例をあげると、2026年現在、社会人として漢字を手書きできないということはあまり問題にならないでしょう(実際に私は多くの漢字を書けないです)。一方で、40年前(1986年)当時なら多くの人が手書きで文章を書いていましたので、漢字が書けないということは知性がないとなったでしょう。
もっというと綺麗な文字を書くということも言われました。私の書く文章は汚いのでよく親に注意されましたが、今なら笑えない昔話ですね。
40年前と言えば、仕事でコンピュータを使うということはあまりなかったかと思いますが、今ではパソコンが使えない人は就職もままならないでしょう。
LLMが起こしているパラダイムシフトはもっとラジカルなものでしょうが、本質的には「人間の知性についての再定義をせまっている」とも言えるでしょう。
LLMが東大の入試問題を解いたというニュースは「実は東大の入試問題はそれほど知的ではなかったのか?」という問いかけを我々に投げかけます。この事実とハルシネーションの間に、「パラダイムシフトへのヒント」が隠されているように思えます。「偏差値は意味がない」という関係者の方はぜひ、ポストLLM時代の人間の知性について議論をしてほしいものです。
Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:SNSでの大学のリストラの議論で思うこと