実に8年ぶりの記事になるのですが、「自動詞と他動詞を考え直す」の続きになります。
ちなみに、この記事は『AIとの共作』になります。文章は私のものですが、特に『I bought yesterday』が持つ感覚について『どう説明しようか?』と思って放置していたのですが、AIの校正により明確な文章にできました。
Part1の記事では、私は『文法上、自動詞と他動詞を区別する意味はあまりない』と言っていますが、これは少し危険で、なぜ一部のネイティブが「I wish」に違和感を持つか?(wishは他動詞)という話になります。例えば、
主語 動詞
という文があった場合、日本人は『文章として成立している』と思いがちですが、ネイティブはどうも『目的語はどうなっている?』と無意識に考えているようです。そして、日本人にとっては(よくわからん理由で)
I go.
は文として成立し
I wish
は、文法的な正しさはおいておいて、文として成立しない。つまり、目的語として、何を望んでいるのか?が明確でないということになります。
ここまででしたら前回の記事の焼き直しになるのですが、日本人にとっての目的語の扱いの難しさは以下の文の解釈になります。
This is the book I bought yesterday.
ここの the も良く議論になるのですが、それは置いておいて、問題はここでの bought(buyの過去形)は『自動詞なのか?他動詞なのか?』になります。
そして見た目の形
I bought yesterday
とは裏腹にここでのboughtは他動詞になります。
上記の文章は、学校では、『関係代名詞』として習います。つまり、
This is the book. I bought it yesterday.
↓
This is the book. I bought that yesterday.
↓
This is the book that I bought yesterday.
↓
This is the book I bought yesterday.
という流れで解釈しがちですが、そもそもネイティブにとっては、上記のようなややこしい変換をしておらず、
I bought yesterday
は、何を買ったか省略されている。不完全な文であり、I bought what yesterday という感覚になっているようです。
さて、さらにややこしいのは、
I bought yesterday.
は完全な文でもあり、この意味では『昨日買い物したことを言いたい』ということで通用するようです。
まったくもって困った話で、I bought yesterdayは文として成立することもあれば、そうでないこともあることになりますが、ここで重要なのは、bought を自動詞か他動詞かに分類した上で文章を解釈することではなく、「目的語を要求する感覚が文脈によって立ち上がったり消えたりする」という点です。
これが、私にとっての英語学習の最大の壁でした。ここではあえてピリオドの有無で区別していますが、I bought yesterdayは、目的語が省略されている(文章の修飾を行っている)場合もあれば、単に目的語の無い文として使う場合もあり、ネイティブは感覚的に使い分けを行っているようです。
(当然ですが、個人個人によって感覚は微妙に異なることになります。特に重箱の隅をつつくような話になるとPart1で言ったように『I wishは自動詞でも使われる』という反論が成立したりします。)
つまり、このあたりの解釈は、文脈(つまり他の文等の関係)だったり、動詞の使われ方だったりするのですが、明確に決まっているわけではなくある種の集合知として整理されているわけです。つまり言語がもつある種の不合理(使っている人には当たり前なのだが説明ができない部分)を如実に表していることになります。
自然言語というのは慣習的に覚える側面があり日本語の場合”は”と”が”の使い分けだったり、数を数えるのに、「いっぽん」、「にほん」、「さんぼん」と「ぽ」、「ほ」、「ぼ」の使い分けの理屈だったりするのですが、これらは明確な基準がなく(数で勝負)のところがあります。
最近のLLMで翻訳ができるようになったのは『個々の単語の分類』だけにとどまらずに『膨大な文脈からの言語の再構成』が自然言語学習の王道ということを示唆しています。
ここで、冒頭の話に戻るのですが、『文法上、自動詞と他動詞を区別する意味はあまりない』といったのは実は『文脈や伝えたい意図によって、動詞は目的語を伴うか伴わないか分かれたり、自動詞のみで使ったり、他動詞のみで使ったりする。重要なのは分類ではなく文脈を読み取って適切に構文を読み取る能力。』ということが言えます。
SNSの投稿で、
『AIで書いたコードを、
細部まで理解できていないままコードレビューに出すのは、
職場でも最も信用を落とす行為なので、気をつけましょう笑』
とあったのですが、分からなくもないのですが、「笑」というのが残念です。
比喩的な話になるのですが、昭和の時代『そろばん付きの電卓』というのがあった。つまり『電卓の結果が信用できない』ということでそろばんがついていたとのことです。
当たり前ですが、『電卓が信用できない』のなら『そろばんのみ』使えば良いですし(電卓とそろばんで2回計算するので時間がかかっている)。令和の時代では、『電卓が間違えるはずがない』ということで、そろばん付きの電卓というのは見つからないかと思います。
もっとも、当時の発想として、実は『そろばんだけだったり電卓だけだったりすると、人間の操作ミスによる間違いがあるので、異なるデバイスで計算し互いに検算しあう』という意図があったかもしれません。
そう考えると
『AIで書いたコードを、細部まで理解できていないままコードレビューに出すのは、職場でも最も信用を落とす行為なので、気をつけましょう笑』
というのは、AIが完全ではないので理解ができます。
しかしながら、この発想は『そろばん+電卓』ということは意識しておいた方がよいかもしれません。
実はソフトウェアの世界では、「中身は知らんがそれを使っている」ということが既に何重もの階層構造の上に起こっています。
我々が何気なく書いているプログラムも、
・OS
・データベース等のミドルウェア
・プログラミング言語環境
・フレームワーク
といった基盤の上で構築しています。
さて、我々はOSのコードやらデータベースのコードを理解しないとプログラミングをしてはいけないでしょうか?
コンパイラが出力するアセンブラコードを理解できなくても良いのでしょうか?
フレームワークについては、全てを理解する必要があるでしょうか?
もちろんですが、2025年現在、『AIの出力するコードを無批判で受け入れる』のはダメでしょう。
しかし、『AI出力の細部を理解しないとダメ』という発想はソフトウェアエンジニアリングの観点からは問題があるということになります。なぜか?
そもそも、コードレビューは、ソフトウェアの品質向上、バグや問題を取り除くために行います。
AIの出力をコードレビューするということは、近い将来に発生する問題として、
「AIが作成した膨大なコードを人間がレビューし続ける。レビューが終わらない。」
ということになります。
せっかくAIにより開発のスピードが上がっても人間のレビューにより生産性が下がるということになります。
コード開発ということばかりに目をやると『コードの理解、レビュー』となりますが、ソフトウェア開発(エンジニアリング)の観点で見れば、これまでの歴史が示すとおり、
・階層化
・コードの再利用
・ブラックボックス化
と進化してきました。
その観点でみれば、必ずしも「細部まで理解する必要がないこと」は理解してもらえるかと思います。
では、コードレビューにおいて、どうも担当者が細部を分かっていないと判断したらどうすればよいでしょうか?
それは、担当者がサボったと認識するのではなく、さりげなく
「ここのロジックについて説明してくれますか?」
「どのように検証しましたか?」
と質問をすればよいでしょう。
『AIに任せた』と回答がくれば、
もし、そのコードが学習する価値があるものなら、「このコードは重要なので覚えてください」と言えばよいし、
もし、そのコードにバグがあるのなら、「AIのこのコードに問題があるので修正するかプロンプトを見直してください」と言えばよいです。
いずれにしても『理解していない=仕事をしていない』と決めつけるのではなく、きちんとレビュー対象のコードの重要性や品質を見極めたうえでレビューを行えば、電卓の結果をそろばんで再計算する必要がなくなるでしょう。
社会保障制度改革へ「国民会議」新設の方針…政府と与野党で「給付付き税額控除」議論、来月にも初会合
いよいよ「給付付き税額控除」について動き出したということですが、最初に私の立場を明確にしたいですが「給付付き税額控除」は賛成ではあります。
一方で、Yahooのコメントを見る限り「給付付き税額控除」はあまり人気がないらしい。これは大きな意味でのベーシックインカムで、私が知る限りここ15年ぐらい議論があり、確かに当時も「モラルハザードが起こり人が働かなくなる」と批判されていた。
社会保障を所得の再分配ということと定義すると、経済的に「恩恵を受ける層」と「負担をする層」に分かれるかと思います。
具体的には、年金だけでなく、日本の終身雇用もある意味社会保障の一端を担ってきたかと思います。つまり若いときに負担をして年齢が上がる度に恩恵を受ける仕組みである。そして定年を迎えたら年金をもらうというある意味『うまくできた制度?』といえなくもない。
ここまでならハッピーなのですが、問題はこれらの制度は必ずしも持続可能ではなく調整が必要なところかと思います。
年金で言えば、主に少子化により制度疲労(負担する人が減った)が起こり、「これでは収支がもたん」ということで今から20年程前に制度改革があり「負担」がおおむね倍になった。これは最近クローズアップされましたが、制度改革以降、年々少しずつ負担が増え、負担が倍になったのは10年程前になったかと記憶しています。
雇用慣行(終身雇用)で言えば、バブル崩壊後の経済停滞により、非正規雇用が増えこれらの人々の給料が抑えられた為、つまり恩恵にあずかれる人が減った為に、終身雇用が社会保障として機能不全を起こしているということになるかと思います。
そういう意味では、「給付付き税額控除」はこれらの恩恵から漏れた人を救うことになるということで期待が持てます。
しかしながら、「恩恵」と「負担」は国家としてはバランスさせないと持続可能ではないと考えますが、そういう意味では今の日本の社会保障は既に「このままでは持続可能ではない」ところにきているかと思われます。
つまり年金にしても終身雇用にしても、恩恵と負担がバランスしていないから改革があったわけで、新しい社会保障を作るのなら、恩恵と負担をどのようにバランスさせるか?という問題が出てくる。
社会保障は、余裕のある人は負担を行い、余裕のない人は恩恵をあずかれるという仕組みであるが、今の日本の状況を鑑みると『国全体が貧乏になったらどうするのか?』という話に集約されるような気がしています。
本来は、ある意味で社会制度の恩恵を受けておりかつ優秀であるはずの、エリート官僚や一流企業の正社員が『日本が向かうべき方向性』を示す(うまくかじ取りをする)べきでありますが、天下り問題や大企業の凋落振りを鑑みると、彼らがモラルハザードを起こしていると思われる点が残念である。
このように考えると、彼らにとって他人事である『給付付き税額控除』は、『年収の壁の議論(7兆円と言われた税負担が数千億円に矮小化されている)』のようにアリバイ的に実施されるというのが現実的なところかと思われる。
日本経済は、政府が定期的に経済対策を打っているにもかかわらず、長期的な低迷から抜け出せていません。
私自身、労働者としての人生を通して、その「横ばい」をずっと体感してきました。
それは、
・補助金が「現場を助ける仕組み」ではなく「組織を回すための仕事」になってしまっている
・補助金を扱う側にリスクがなく、受け取る側にだけリスクが集中している
など、使い方が「現場向きでない」ということに問題があるかと思います。
上記問題点について、過去の経験から考察したいです。
ちなみに、コロナ禍の補助金についてですが私も受給しましたし助かったことは事実であることを申し上げます。
その後、いくつか補助金の申請等を行いましたが、結果として助かった補助金は「直接的な金銭支援」になります。
現在、補助金は受け取っていませんが、コロナ禍も過去のものとなりインバウンド需要も復活したので補助金なしでも大丈夫となりました。こういう意味(補助金に頼らなくなる)でも持続化給付金や雇用調整助成金は大変助かりました。
一方で、違和感を持つ補助金もありました。
・IT関連の補助金で、半額で会計ソフトが購入できるということで買おうと思ったら、面倒な手続きをやった挙句に、会計ソフト単独では買えずに、使うかどうかもわからないサポートが付与されて、結局、ほぼ定価で買う金額提示をされた。
→もちろんキャンセルした。
・とある期間、使用目的が決まってたプロジェクト系の補助金で、イベントを行う為に利用したが、コロナ禍が長引いたので延長申請をしたら却下された。
→補助金は要りませんということで中止申請をしたところ、延長が認められるようになった。『延長すればいいんですね』と上から目線で言われたので「もう要らないです」と言ったらそれは都合が悪いらしく最後は『頼むから延長してくれ』になった。とある経済団体が事務局をやっていたが審査がずさんで閉口した。
・とある旅行系の補助金(旅行者が割引の恩恵を受ける)で、こちらもなぜか実施要項が細かく決まっており、補助金の申請の段階で『これは却下です』と言われて補助金を受け取れなかった。旅行者には割引で旅行をしているが追加の料金負担をお願いできるわけもなく、こちらが被った。ここまでならこちらの落ち度ということも理解できるが、次の旅行の時に事務局に詳細を確認したところ、『それはできない』と言われた。リスクを旅行会社が受ける補助金ってなんの為の補助金か理解に苦しむ。ちなみに事務局は各都道府県にあり大手の旅行会社からの出向で行われていた。つまり大手旅行会社への補助金かと勘ぐってしまいます。
・とある旅行系の補助金(旅行者が割引の恩恵を受ける)で、クーポン券の発送(宅急便)が間に合わず、離島まで運ぶというアルバイトをした。ちなみに数人で離島へ行ったが旅費が数十万かかったかと思うが配布したクーポン券は3冊だった。意義はあったかもしれないが宅急便なら1万円でおつりがくるクーポン券の発送をわざわざ数十万の旅費をかけてやることかと思う。これは1か所の旅費であるので全体では膨大な費用が発生したかと思う。
・ITプロジェクト等は失敗がつきものなので成果が出ないのは仕方ない面があるが、会社員時代は上司が『○○のお金をぶんどる』という意識でやっていた。後にその会社は辞めた。
という経験がありました。とくに『一部の企業に恩恵がある』や『補助金をとりに行く体質』を鑑みるに、現在の補正予算が大規模になっていく理由として合点が行きます。
つまり、補助金が「補助」ではなく、事実上の定期給付になってしまえば、事業者は自立できず、経済も回りません。
この構造そのものが、現在の日本経済の停滞を長引かせている一因ではないかと感じています。
先月の首相による台湾有事に関する発言をきっかけに、日本と中国の関係は急速に冷え込み、経済面にも影響が出始めているように見えます。
台湾有事への言及は、日本側としては抑止の意図があったとしても、中国側から見れば「軍事衝突も辞さない」という意思表明と受け取られている可能性があります。見方を変えれば、中国の軍事力を軽視しているようにも映りかねない発言です。
最大の問題は、「正しいことを言えば相手は従う」という発想が、政権やその支持層の一部に見られる点ではないでしょうか。
しかし古来より、国際政治において権力は武力によって担保されてきました。そして中国は核保有国です。
多くの日本人は、中国が日本に対して核兵器を使用することを現実的に想像できないかもしれません。しかし理論上は、その可能性が完全にゼロとは言えません。例えば、米軍や米国民がほとんど存在しない、あるいは少ない地域に対して小規模な核兵器を使用することで、米国に対する牽制(脅し)とするというシナリオも考えられます。
もしそれによって米軍の関与が後退すれば、中国が台湾を占領するハードルは大きく下がるでしょう。
現在の米国大統領は、ノーベル平和賞の受賞を強く意識しているとも言われています。また、米国の相対的な一強体制が揺らぐ中で、中国との直接的な軍事衝突を避けたいという思惑が米国側にある可能性も否定できません。
もちろん、「まだ勝てるうちに相手を叩く」という考え方もあり得ますが、少なくとも米国の意思は以前ほど単純ではなくなっているように見えます。
こうした状況下で、日銀が利上げを行ったにもかかわらず円安が進んだことは、海外投資家が日本を以前よりリスクの高い投資先と見始めている可能性を示しているのではないでしょうか。その「リスク」の中身には、日本経済そのものだけでなく、日本が有事当事国になり得るという地政学的リスクも含まれていると考えられます。
さらに、政府高官がオフレコで日本の核武装の必要性に言及したという報道もありました。これは、政府内部にも中国の核リスクを現実的なものとして捉えている人がいる、という見方もできます。
中国と真正面から対峙するのであれば、核武装が理論上は必要だという議論が出てくるのも理解はできます。しかし、マスコミが「非核三原則はどうしたのか」と批判するのも当然でしょう。
問題は、こうした報道が対外的にどう受け取られるかです。
中国や他国から見れば、「日本は平和主義を放棄しつつある」と映る可能性があります。さらに中国側にとっては、「日本が核武装を完了する前に叩くべきだ」という動機付けになりかねません。
このような思考が投資家の間でもリスクシナリオとして意識され始めているのではないかと感じています。
実は、円安は通訳ガイドにとっては歓迎すべき側面があります。インバウンド需要が増え、仕事の機会も広がるからです。
しかし、今後さらに地政学リスクが高まり、海外の一般の人々が「日本は危ない国だ」と感じるようになれば、それは通訳ガイドとしても、観光業全体としても大きなマイナスです。
円安そのものよりも、円安を招いている背景が何なのか。
そこを冷静に見極める必要があると感じています。
Chat GPTを使って論点整理しました。やり取りはこちらです。